東大における女性の歴史
辻村みちよ
最終更新: 2022年3月19日
辻村みちよは、1888年に埼玉県に生まれ、9人家族の中で育った。小学校の校長であった父親は、娘たちが教師になるべきだと考えていたため、辻村は高等小学校を卒業後に1年間教鞭を取ることになる。その後、師範学校で学び、1909年に卒業すると、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科に入学した。辻村はここで日本初の理学博士である保井コノの教えを受け、研究に目覚めることになる。しかし、卒業後は一定期間教職に就くことが義務づけられていたため、1913年から7年間、神奈川と埼玉で教員生活を送った。
辻村が32歳の時、北海道帝国大学が女性を非正規の課程で受け入れるようになる。これは、1918年当時としては先進的なことだった。辻村はそのチャンスをつかみ、食品栄養研究室の無給の副手になった。1922年、辻村は東京帝国大学医学部医化学教室に移り、銀杏に含まれるビタミンやタンパク質の研究を行った。しかし、1923年、関東大震災で研究室は全壊。彼女は実験中に化学天秤を握りしめて研究棟から逃げ出したと言われている。やむなくして辻村は理研に移り、ビタミンB1の発見で有名な鈴木梅太郎教授に師事し、緑茶に含まれるビタミンの研究に取り組んだ。緑茶に多量のビタミンCが含まれていることを発見し、日本茶のアメリカへの輸出量の増加に貢献したほか、渋味の原因となる4種類の化合物(カテキン)を単離した。43歳の時、この研究成果を東京帝国大学に提出し、1932年に女性で初めて農学博士の学位を授与された。
1949年、新設されたお茶の水女子大学の食品化学担当教授に就任した。その後、家政学部の新設により初代家政学部長に就任した。女性が研究する機会は徐々に増えつつあったが、依然として家事に関する分野に集中していたことを反映している。
辻村は、保井コノとは対照的に、海外に留学することなく、研究者としてのキャリアを積んでいった。