東大における女性の歴史
影山裕子と白金学寮
最終更新: 2022年3月19日
東京大学に女子学生が入学を許可されたのは1946年からであったが、その後女子学部生は徐々に増えていった。女子学生の数は1964年に100名を超え、80年には200名となっている(入学定員が激増しているため、女子が全入学者の10%を超えるまでに40年かかっている)。
1940年代後半〜50年代の学生は男女共に勉学を続けるための経済的困窮に悩まされていた。多くの学生はアルバイトでなんとか生活費や学費を工面していた。戦後の栄養失調に加え、厳しい学生生活のために肋膜炎や肺結核などに倒れる女子学生も少なくなかったという。
この窮状に対する認識を高めさせ、女子寮創設を決断させたのが影山裕子である。自身も地方(長野県小諸市)出身の影山は、1951年、当時の矢内原忠雄教養学部長に便箋9枚にも及ぶ直訴状を提出し、地方から上京した裕福でない女子学生たちが単身東京で勉学を継続することの困難さを説いた。そしてアンビションを抱く女子学生に安心して住める寮をと、女子専用の学生寮建設を訴えたのである 。ちなみに男子寮としては、駒場寮(1935年竣工)や旧三鷹寮(1933年竣工)などが1950年から東大の学生寮として使われていた。
影山の直訴から2年後の1953年9月、港区白金に白金学寮が開設され、女子学生14名が入寮した。その後女子入学者増加に伴い、1966年4月には新女子寮が開設された。
女子卒業生の累計が数十人に達した頃、影山らを中心に東大の女子卒業生の同窓会を作る動きが生まれた。当時名簿も作られていなかったところから呼びかけを行い、1961年6月に東京大学女子卒業生同窓会として「さつき会」が誕生した。
影山は、東京大学経済学部を卒業し、日本電信電話公社(NTT)で働きながら米国のコーネル大学労使関係学部に留学する等、労働経済学と婦人の問題について研究し、男女雇用機会均等法(1986年)を先取りする主張を早くから展開。職場の女性の地位向上をめざして精力的に活動した。